写真の被写体は、風景や建築、花や食べ物などいろいろあるが、私は人物を撮るのが好きである。
特に、写真屋さんで正装してあごを引いて撮るような形式ばったものとは真逆の、その人らしい自然な動作や表情を写すことができた時に、気持ちが上がるのだ。
撮影する場所も大切で、その人が「自分らしい」と思える場所であった方が良い。
写真は、タイムカプセル
写真は、その瞬間の空気を残すタイムカプセルみたいなものである。
たとえば10年前の家族旅行の写真アルバムで、一人だけ怖い顔をした父親の表情を見て
そうそう、この時、お父さんの機嫌悪かったよね。
車のバッテリーが上がっちゃったんだっけ?
と思い出す、みたいなことがある。
文章に残すのも良いが、写真には、一瞬の情景と空気を10年後に残せる力がある。
カメラを、私を、忘れるまで待つ
そうしたタイムカプセルの潜在力を発揮させるには、逆説的だが、被写体にカメラの存在を意識させない方が良い。
そのほうが被写体のありのままの姿を残すことができるからだ。
「カメラ」という装置がもつ意味
人がカメラを意識するとき、「見られている」という他人の視点が介入する。
つい先ほどカメラを向けられる前までは「無意識の自分視点」だったのに、カメラに気づいた瞬間「意識的な他人視点を通した自分」へと変化するのである。
つまり、カメラという装置は、被写体に「自意識」を生み出すのだ。
「自意識」のハンドリング
この「自意識」がときどき、「その人らしさ」の阻害要因になることがある。
ここでの自意識とは、噛み砕いていうと「私はこのような姿で見られたい」という意識のことである。
そういう時に私は、まず「本人が望む姿」を撮ったうえで、「自意識が消えた瞬間の姿」も必ず残すようにしている。
ちなみに自意識が消える瞬間を撮る方法はシンプルで、ずっとカメラを向け続けること。
初めの30秒くらいは被写体がずっと演技をしていたとしても、そのうちだんだん「そろそろ終わらないかな」という感じになってくる。
それでもカメラを向け続けると、ふいに演じるのをやめる瞬間が訪れるのだ。
それこそがカメラを意識しなくなった瞬間であり、その人の「ありのまま」がこぼれ出る瞬間である。
海辺でポートレート
最近、海辺でポートレートを撮影したので、ほんの一部だけ紹介する。
夫婦の写真
ビビッドカラーが好きなふたり。写真も色がより鮮やかに出るように工夫して撮影。
レジャーのひとコマを撮影
スポーティな彼の自然な表情が出るのを待って撮影。
フィルム写真のテイストを出すために、解像度を粗く、彩度を落とす加工を施した。