アメリカ人が目撃した日本の学校

最近オーストラリアはシドニーに来たアメリカ人の友達が、

アメリカよりもずっと白人が多くてビックリした

と言っていて、興味深かった。私は

シドニーにはアジア系が本当に多いなぁ……

と思っているので本当のところはわからない。

ただ、彼女のホームシティでは黒人が人口比の30%を占めるのに対し、シドニーではあまり黒人を見かけないことがその印象を強めているようだ。

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「みんなと同じ」を求める社会

そんな彼女は日本の高校で勤務した経験があり、日本には100%に近い割合で日本人しか住んでいないことを踏まえて

みんな同じであることを強制する空気がある

と指摘していたのが痛烈だった。

彼女のクラスには、1年間でいちども顔を見たことのない女の子がいた。常にマスクをしていたからである。

聞けば「自分の顔が嫌いだから」という。そんな彼女に対して、

あなたは美しい。あなたは人と違って美しい。あなたはあなたであるだけで美しい

と会うごとに繰り返し、彼女の彼氏に対しても、彼女が自信をもつような言葉をかけるよう促し続けた結果、ついにマスクを外したという話が印象深い。

アメリカ人は、本当に自信満々なのか?

ではアメリカの同年代はみな自分に対して自信満々なのか?と聞くと、

当然、まだ大人ではないから自信はないのだが、自信があるように見えるよう振る舞っている

自信があることと、自信があるように見えることは別の話だが、少なくとも自分に自信があるふりをすることが良いという、いわば社会(コミュニティ)の圧力があるそうだ。

同化させる圧力を同調圧力というのならば、多様であるよう仕向けるアメリカの力学は多様圧力とでも言うのかもしれない。

アメリカ人がみる日本の学校

多様性を前提としてデザインされた社会では、全員が同じであることの積極的な意味は薄らぐ

彼女が勤務した高校はいわゆる「底辺校」(※私はこの言葉が大嫌いだがあえて使う)だったそうで、生徒の一部はベランダでタバコを吸ったり先生を笑いものにしたりと素行は悪かったらしいが、それを彼女は

ロボットみたいに言われたことを完璧にこなすエリート校の生徒より、よほど自我があって人間らしい

と愛しむのである。

教育に求める価値の違い

「出る杭は打たれる日本」「出る杭を引っ張るアメリカ」のコントラストが教育現場で如実に現れるように、やはり国民を(国にとっての)理想形に近づけようとする国の教育というものには、その国の考え方が色濃く出るものだ。

スカートの丈を定規ではかり、地毛証明を提出させ、前ならえで整列させ、お辞儀の角度までチェックする。

そんな日本の教育の一面がいまの「礼儀正しい」日本人観のベースメントを構成しているのだとしたら一概に否定することはできないのかもしれないが、それでもやはり、「理想的な国民」という入れ物が一つしかないことの弊害は非常に大きいものがある。

線引きによって生まれる「異常な人」

基準には区別がつきものであり、線を引いた瞬間に、「線の中にいる人は正常」「線からはみ出た人は異常」という二項対立が生まれる。

その線をどこに引くかによって、正常ラインと異常ラインは簡単に変化するという意味で、線引きが恣意的であることに疑いの余地はない。

これが白黒かつ直線の二項対立ではなくて、カラフルかつ四角形のグラデーションマップのような考え方をベースとした社会デザインであるのがまさに多様性を尊重するアメリカであり、そこでは正常か異常かという線引きが相対化されている

ただ、アメリカ社会には文化戦争はもちろん、銃規制や高額なヘルスケアの問題など課題が山積しており、住むのに理想的かといえば疑問が浮かぶ。

とはいえ、それでも多様性哲学には一定の説得力や魅力があるからこそ、いまもなお世界中の多くの人々がアメリカに興味を寄せ続けるというのもまた真なりだと思う。

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