2024年1月に行われた「第56回ミス日本コンテスト」。
グランプリに選ばれた椎野カロリーナさんを巡る一連の騒動は、私にとって、立ち止まって考えるべき問いを投げかける意義深いできごとだった。
その問いとは、次の二つである。
❶日本の不倫報道は、なぜ(男性側ではなく)女性側に対するバッシングを招くことが多いのか
❷日本はなぜ、外国にルーツを持つ個人や集団に対して排他的な傾向にあるのか
これらの問いに思考を巡らせると、日本と西欧社会(北米・ヨーロッパ・オーストラリアなど)の人々の考え方や行動様式に埋めがたい根本的な違いがあることに気づかされる。
それは社会が「親族ベース」でデザインされているか「個人ベース」かという違いであり、その違いが、日本社会の随所に見られる「息苦しさ」の正体を明快に照らし出すのだ。
では、「親族」と「個人」の社会デザインの違いとは、一体どういうことか?
全2回にわたって考察してみたい。
ミスコン騒動とは
本論に入る前に、まずは“ミスコン騒動”の経緯をおさらいしたい。
BBCが報じたニュースがよくまとまっているので、多少長いが、全文引用する。
ウクライナ出身モデルがミス日本グランプリを辞退、既婚者との交際発覚で
2024年2月6日
1月に行われた「第56回ミス日本コンテスト」でグランプリに選ばれた椎野カロリーナさん(26)が、グランプリを辞退した。
週刊誌が、椎野さんが既婚男性と交際していたと報道したことを受けたもの。
椎野さんはウクライナ人の両親を持つ。5歳の時に日本に移住し、2022年に日本国籍を取得していた。日本に帰化した人がミス日本のグランプリを獲得したのは、椎野さんが初めてだった。
こうした中、「週刊文春」は1日、椎野さんが美容外科医兼インフルエンサーの前田拓摩さん(45)と交際していたと報道した。
報道当初、ミス日本を主催する一般社団法人ミス日本協会は、椎野さんは前田さんが既婚者だと知らなかったと話しているとして、椎野さんを擁護した。
前田さんもソーシャルメディアで、自分が既婚者なのを隠していたと認めた。
しかし、ミス日本協会は5日、「本人より、一身上の都合により、(グランプリを)辞退したいとの申し出がございました」と発表。同協会は申し出を受理し、今年のミス日本グランプリを「空位」とした。
椎野さんの所属事務所によると、椎野さんは交際中から前野さんが結婚しており、家族がいることを知っていたと、後から認めたという。
椎野さんは5日に自身のインスタグラムで、事務所への説明内容に事実と異なる点があったと説明。「混乱と恐怖から真実を話すことができなく」なっていたと、ファンに謝罪した。
椎野さんのグランプリ受賞によって、日本人とは何かという議論が再燃していた。
「いまの時代を象徴している」と評価する声がある一方で、「ミス日本」のあるべき姿ではないとの声も出ていた。
椎野さんは受賞当時、「なかなか日本人として受け入れてもらえないことも多く、今回、日本人として認められたと感謝の気持ちでいっぱいです」と語っていた。
ポイントを要約すると、以下の通りだ。
- 「週刊文春」の報道がきっかけで、椎野さんと前田さんの交際が明らかになった
- 前田さんは既婚者で、家族がいた
- 椎野さんは騒動に関する説明を途中で変更し、グランプリの辞退を申し出たうえ、ファンに謝罪した
- 椎野さんは幼少期に日本に移住し、「日本人」としての自意識に基づき日本国籍を取得した
- 椎野さんのグランプリ受賞は賛否両論を呼び、「日本人とは何か」という議論を招いた
前編の今回は、このうち特に「不倫報道」を巡る経緯と世間の反応に注目し、後編では、「日本人とは何か」を巡る議論について考察したい。
日本の世間の反応に垣間見える“ジェンダー非対称”
この騒動はBBCやCNNなど主要海外メディアでも取り上げられた。
シドニーでも知れ渡ることとなり、友人からこの件について問いかけられることがあったのだが、中でも、ある白人系男性の質問が興味深いものであった。
どうして女性の側ばかりバッシングされているの?
彼のロジックを注意深く紐解くと、次のような考えであった。
このケースで家庭を築いていたのは男性の側であり、しかも、この男性は女性よりも年齢が一回りも上の40代半ばで、この女性よりも良識的な判断を一層求められて然るべき立場にある。
ならば、この男性の方こそ罪深い行いをしたのであり、この女性が男性以上に矢面に立たされるのは理解しがたい、というものだ。
なるほど、筋が通っている。
もちろん一般的には、不倫報道をめぐっては、男性が叩かれる場合もあれば、女性が叩かれる場合もある。
例えばタレントのベッキーさんと「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音さんによる不倫騒動があった際も、ベッキーさんが多くのテレビ番組やCMの仕事を失ったのに対し、川谷さんは自分のキャリアを続けた。
日本社会が抱えるジェンダーの非対称性は、こうした事例が明るみになるたびに、炙り出されてきた。
不倫は個人の問題か、社会の問題か
複数の友人の解説によれば、不倫は個人の問題であり、社会的に制裁を下されるものというよりも、個人が悔い改めるべきものであるという考えの方が強いからだという。
日本と欧米で噛み合わない論点
「週刊文春」や、ネット上で苛烈に攻撃する人たちのロジックは、次のようなものだ。
不倫は、共同体から課される基準を逸脱した恥ずかしい行為であり、ルールを破ったという意味で非難されて当然であり、したがって社会的な面目を失うという制裁を受けるべきである。
つまり、オーストラリア人が不倫を個人の問題とみなす傾向にあるのに対し、一部の日本人はそれ以上に、社会の秩序や調和を乱す問題であると受け止めるのだ。
女性だけに適用される共同体ルール
ある専門家は、女性だけが強く叩かれる理由を次のように解説している。
「世の中の人々は日々、社会規範に従って生きています。社会規範は人間の本能的欲求に反するものが少なからずありますが、それでも、人々は皆、社会規範に従って生きています。女性は男性よりもブレーキをかけることができる存在ですから、男女別に見た場合、一般女性たちの方が、より社会規範に従って生きているわけですが、そうなると、ルール違反に対する一般女性たちの態度は、一般男性よりもより厳しいものになります。そんな状況で、有名人の不倫ニュースが流れたとしたら……一般女性が女性芸能人を激しく攻撃してしまうのは、人道的な観点からはさておき、当然の結果と言わざるを得ないでしょう」
経営コンサルタントで心理学博士の鈴木丈織氏のコメント(J-CASTニュース編集部坂下朋永氏による記事内で)
私はこの考え方に俄かには賛同できない。
なぜ、女性は男性よりもブレーキをかけることができる存在と言えるのか。
仮にブレーキをかけられる能力に差があったとして、それが女性側をより強く叩くことを正当化する理由になり得るのか。
そうした点に疑問を感じざるを得ないからだ。
つまり、「女性は品行方正であらねばならない」という女性専用の共同体ルールが存在することを、この専門家は明快に描写している。
「親族ベース」か「個人ベース」か?
そうした一件に示されるとおり、日本は、共同体の秩序を重んじる社会である。
親族ベースの共同体の特徴
人類は、そうした親族関係を緊密に維持しながら繁栄してきた歴史があり、そのネットワークの中には、夫婦が土地を共同管理するとか、子ども(成人した場合でも)が罪を犯すと親も夜逃げするとかいうような、儀礼やタブーが存在するのである。
親族ネットワークに張り巡らされたこうした暗黙のルールによって、構成員は厳格な振る舞いを求められる一方で、共同体の凝集性(メンバー同士の絆の深まり)が促される。
それは結果的に、「ウチ」と「ヨソ」の境界線をよりクッキリとしたものにする効果があるのだ。
「掟破り」=よそ者
だからこそ「ウチ」のメンバーが厳格に守っているルールを破ったものは、「よそ者」とみなされる。
椎野さんの不倫騒動が「騒動」になったのは、まさに「ウチのルールでは品行方正であらねばらなない女性が、不倫という掟破りを犯した」という点に強く注目した人が一定数いたからである。
家族主義の対極にある「個人主義」
そうした家族主義とは真逆にあるのが「個人主義」である。
個人主義的な考え方をする人ほど、ウチとヨソの境界線をあまり意識せず、伝統やしきたりにこだわらず、身内びいきをしない。
ここにある論文の研究結果がある。
アメリカやオーストラリアなど、個人主義的な考えに基づく社会の人ほど、相手がどんな人物であるか(上司、部下、友人、家族)によって態度を変えることが少なく、日本や韓国など、家族主義的な考えに基づく社会の人ほど、相手との関係性によって態度を変えることが多い。
Campbell et al.,1996; Church et al.,2006他
ただし、これはあくまでも実験に基づく客観的なデータであり、それをどう評価するかは別問題である。
あるオーストラリア人の知人は、相手によって態度を変える日本人を「裏表がある」とネガティブに評価したが、日本人の一定数は、これを「世渡り上手」と評価する。
このことは、相手によってタメ口と敬語を使い分けられない日本人がネガティブな評価を受けることからも、明らかだ。
家族主義に基づく社会では、相手に応じて態度を柔軟に変えるのが良しとされるのに対し、個人主義に基づく社会では、相手が誰であろうと一貫した態度を取ることが望ましいとされているのである。
「恥ずかしい感情」ではなく「罪悪感」
個人主義と家族主義。
この二つの異なる考え方に基づく社会で、人が過ちを犯したときにどのような感情を抱くかについて、アメリカの人類学者であるジョセフ・ヘンリックは、非常に興味深い指摘をしている。
曰く、家族主義の社会では「恥ずかしい」という感情が前面に出るのに対し、個人主義の社会では「罪悪感」が前景化するのだという。
彼の記述を引用しながら説明すると、次のようになる。
「恥」の感情は、「他人の目から見た社会的地位の格下げ」と関連がある。
裏返して言えば、「世間に知られていなければ、秘密がばれやしないかと不安になることはあっても、恥を感じることはない」。
一方で、「罪」の感情はこれとは異なる。
世間の目とは関係がなく、「自分自身の行いや感情を、あくまでも個人的な基準に照らして評価したとき」に生じる感情なのである。
ジョセフ・ヘンリック『WIERD「現代人」の奇妙な心理』
たとえばスタバのプラスチック容器が環境に良くないと思う人が、周囲がみなプラ容器を受け取るとき、それを受け取っても批判する者はいないのだが、個人的な基準に照らして罪悪感を抱くのである。
個人主義的な社会では、多様な人間関係や状況をコントロールする社会的な規範が家族主義の社会と比べて少なく、集団の中で厳しく監視されることがあまりない代わりに、独自の基準を培うことが質の高い人間関係の構築に欠かせないとされているのだ。
不倫と個人主義
最後に、個人主義のオーストラリア社会において、複数の友人が不倫について語った言葉をもう一度、振り返ってみたい。
個人主義の社会では、自分なりの反省ができないものは、「未熟」であっても「よそ者」ではないのである。